論を展開する試みをやめないこと

 

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 論文の草稿を書く段階に入った。しかし、書き始めというのが案外難しい。好みの曲かどうかもほとんど脊髄反射的な判断によってなされる。はじめに何を記述するかで、論文の総体が左右される。フィットする言葉はどこにあるのだろう。魅力的な導入にであると読者に印象づける言葉の連なりとはどのようなものだろうか。

 はて、構成が難航している。論文のアウトラインを一応立てたものの、部分と部分の接続がまだ脳内に漠然とイメージされているだけで、全体の輪郭がぼやけている。この1年半、論文化に向けて断片的なメモはなしうる限り毎日細かに取っていたし、それなりの量の本や論文から情報も収集してきた。調査や対話を重ねながら、できるだけ対象に接近しようと努めてきた。だが、この時期になって、継続的にミクロな論考を作成する作業を怠ったってきたのではないかという疑念が頭をよぎる。結局、自分は他者に向けて作品を提示することを義務付けて(られて)いるわけだから、それを十全に遂行するためには、やはり日々の修練が鍵を握ってくる。メモには軟弱な筋しかなく、余白があって、つまりそれはアイデアを制約しないためには有効であろう。ほとんど生の素材はこちらの調理の仕方次第で、いかようにも姿形が変わる。肝心なことは、それに的確な絞りを入れ、鮮やかな筋を構成し、読者を刺激する言葉で論を美的に展開することにある。連続と断絶を精確に把握し、一気に結論づける欲望を禁欲的に統制し、戦略的にボカしを入れ、それでいて遊び心もふんだんに盛り込みながら、全体を立体的に構築しなければいけない。構成的能力、修辞的技巧を発展させる修練を今からでも始めていきたい。

 文章に興味を持つようになったのは2年前の卒業論文執筆時、とてつもなく明晰に思考することができた経験に由来するのかもしれない。そして解釈すること、構成すること、表現すること....そういったものに関する探求意欲は日に日に増している。あの経験は一体何だったのか、今考えても不思議である。論全体における諸部分、その諸部分を構成するさらに小さな諸部分を一つ一つ細やかに解剖し、有機的に連関するよう再構成し、全体整合的に配置する。豊かな言葉が湧出し、筆が乗りつづけるライティング・ハイとでも呼べる没入感をそこで覚えた。部分と部分は然るべき役割を相互に果たしながらその接面はスムースな連続性を保っており、論文としての形式や内容の水準の低さはあれど、書き終わる頃には事象の内の現在明らかになっている境界ギリギリまで的確に言語化することができたような感触もあった。そしてそれは私の人生のうちの貴重な出来事の一つになった。

 変性的なテンションで思考し、短期間に作品化するという濃密な体験をしたのはその時である。それはこの先の4ヶ月に関わる問題で、その時期になったらなったらで、そのモードへと全自分を自然と移行できるような直感もあるし、他方でやり通せるかどうかの不安もある。というよりそれらは常に隣り合わせのもののようである。本気で書くことは不安と格闘しつづける作業でもある。構成の不協和音に耐え忍び、透徹した表現に至らないもどかしさに踠き、わからないことによる不安にすぐさま飲み込まれそうになる。尖る神経を落ち着かせようとして、ニコチンとカフェインを燃料に再び書こうとするが、気分が高ぶりすぎてそれが文面に出てくる。指が震え、キーボードを横滑りしながら文字を獰猛にスクリーンへと叩き込む。感情に筆の主導権を渡すことは決して悪いことではないが(そしてそれは時に必要ですらあるが)、いついかなる時でも好ましいことであるわけでもない。思考の矛先をレーザー光線のように一点に収束させ、対象をクリアに把握しよう努め続けければならない。これには必然的に筆者に繊細なメンタルコントロールを要求する。動きつづけ、粘り強く思考を貫きつづけようとすると、自分がどこまでできるのかを試されているのような気持ちになる。書くことは冷然と激情の間を行き来する振り子を連想させ、それは常にバラバラになってしまうような緊迫感を孕みながら運動し続ける。

 展開し続ける持久力とでもいうべき力はいかにして涵養しうるか。一つの答えは反復することにある。路上にある雑多な言葉をかき集め、様々な論を内容・形式共に分析し、それらを模倣し、技術を強奪し、様式を束ね、再び破壊する。文章も書けば書くだけ上達するはずだ。編集もすればするだけ華麗にになっていくはずだ。量的な飽和が質的な変容を導く。その過程に伴う苦痛を友とし、文章に決して妥協しないことに忠実ででありつづけることができるならば、何年か後には全く違う地平に立っているかもしれない。反復し継続することが肝心である。 

 そういった意識から、日常に遍在する瑣末なリアリティを解釈し論じるための場を設けたいなと思い至った。解釈の題材は何でも良いが、自分の持ち前の知識と感覚を自在に援用して、読書や執筆や編集という営みについて観想するために、何事かを論じてみるというわけだ。自覚的でありたいと思うことは、対象をどのように形象的に関係づけられるかということかもしれない。素材を強制的に設定し、どのような視角から、どのような概念をどのように操作して、なぜそれができうるのか。概念運用能力を磨けあげるプラクシスに自己を馴化させるとはこれについて考えることであると思う。概念を操り、概念と概念を縫合し、論理を削り出し、全体を秩序づけていく。結果として、それ以前には構築されていなかった概念間の回路や総合的な視点を新たに立ち上げる。そういった能力を飛躍的に向上させることがこのブログの目論見である。将来的に壮麗な建築物を作るためには、その扱い方に習熟していく必要があるだろう。